プロレタリアデザイン

上野 学
2017年10月4日
この記事は、2017年10月1日に開催した UX戦略フォーラム 2017 Fall における同タイトルの講演をもとにしています。

現代的な意味での、プロレタリアデザインというものを考えてみたいと思います。

厳密にいえば、ひとつの道具が「ある」のでは決してありません。道具が在るということには、いつも道具全体が属していて、そのなかでこそこの道具が、そのあるがままにありうるのです。

マルティン・ハイデガー 『存在と時間』

ハイデガーによれば、人工物というものはどれも何かの目的的性質を持って作られています。その性質、つまり、便利さ、有用さ、使いやすさ、手頃さ、といったものがその物の全体性を構築していて、それによって、道具は初めて道具として私たちの前に現れてくるのです。

テクノロジーがプロレタリア性を暴露する

粒子の粗い白黒写真。家々、道路、街路樹などが写っている。

これは1838年、最初期のカメラであるダゲレオタイプによって撮影された「タンプル街風景」です。賑やかなパリの街角を写したものですが、長時間露光のため、道ゆく人々は全く写っていません。どこか現実と非現実が入り混じったような不思議な風景となっています。

しかしよく見ると、左下の道端に人が写っています。これは靴磨きの少年とその客だと言われています。彼らだけが10分間そこに静止していたのです。これが写真に写った最初の人間と言われています

このことはとてもショッキングです。最先端のテクノロジーによってはじめて観察された表象世界にいたのは、社会の最下層に暮らす貧しい少年だったのです。このエピソードは、テクノロジーが基本的に持つプロレタリア性を示唆していると私は思います。

哲学はプロレタリアによって現実化する

哲学はプロレタリアートを止揚することなしには現実化されえず、プロレタリアートは哲学を現実化することなしには止揚されえない。

カール・マルクス 『ヘーゲル法哲学批判序説』

マルクスは、哲学、つまり世界とはどのようなものか、人間はどのようにあるべきかといった大きなテーマについて考え、その思想を実現していくためには、プロレタリアという概念に向き合う必要があると言っています。

思弁的デザイン

現在の私たちが言う哲学は、主に思弁哲学(Speculative Philosophy)というものです。この「スペキュラティブ」という観点からデザインについて書かれた「A/B マニフェスト」では、一般に考えられているデザインと、スペキュラティブなデザインの対比として、次のような事柄が挙げられています。

一般に考えられているデザイン スペキュラティブなデザイン
肯定的 批評的
問題を解決する 問題を発見する
答えを提供する 疑問を提起する
解決策 手段
産業界のため 社会のため
今ある世界のため 実現しうる世界のため
人間に合わせて世界を変える 世界に合わせて人間を変える
買わせる 考えさせる
ユーザーフレンドリー 倫理的
アンソニー・ダン & フィオナ・レイビー

このリストを見て感じるのは、これらが、私が仕事でクライアントと「目指すべきデザインの方向性」について話をする時によく起こる、認識のギャップととても似ているということです。

認識のギャップ

ビジネスオーナーが考えるデザイン デザイナーが考えるデザイン
多いほど良い 少ないほど良い
直観的 慣用的
マニュアルレス モードレス
確認する 取り消し可能
カスタマイズ可能 よいデフォルト
アシスタント的仕事支援 ユーザーの能力を拡張
現在のユーザー行動から導出される 新しいユーザー行動を導出する
外的状況から形づくられる 内的熟考から形づくられる

例えば多くのシステムオーナーは、デザインというものは論理的な作業であり、問題領域の状況を客観的に把握すればそこから半ば自動的に具現化されるものと考えている節があります。しかしデザイナーの経験的心理としては、確かにデザインの半分は論理思考によって導かれるものだとしても、残りの半分は、自らの思索と意志によって初めて形が与えられるものだと感じているでしょう。

デザインの最終の目的は形である

現実のデザイン問題では、達成すべき適合があるという我々の確信は、奇妙に希薄で空虚なものである。我々は、二つの触れ得ぬものの間のある種の調和を探している。それは、まだ我々がデザインしていない形と、的確に表し得ないコンテクストの間の調和である。

クリストファー・アレグザンダー『形の合成に関するノート』

アレグザンダーは「デザインの最終の目的は形である」と言っています。しかしあるべき形に到達するのは簡単なことではありません。

アレグザンダーによれば、例えば、表面に凹凸のある金属板を平らに削ろうとする時、できるだけ理想の平面に近いまっすぐな定規を探してきて、そこにインクをつける。インクのついた定規を金属板に置くと、板の凸の部分にだけインクがつく。こうすることで削るべき部分、つまり問題箇所が可視化されます。別の言い方をすれば、ある物のコンテクストへの適合度合いというものは、常に間接的にしか把握できないのです。

私たちはデザイン作業において、作るものの最終的な理想形を直接イメージすることはできず、たまたま目についた問題箇所を直すことしかできません。そうすることでしか、コンテクストへの適合に近づくことはできないというのです。仮に問題が全て解消されたように見えても、本来の形というものはそれとは全く違う様相で、見えない可能性の中に広がっているかもしれないのです。

デザイナーは何に従うべきか?

  • ファイルを移動するには「OK」を押してください。
  • ファイルを複製するには「キャンセル」を押してください。

あるべき形を直接的に思い描くことができないなら、デザイナーは何に従ってデザインすれば良いのでしょうか。

この図は一見よくある一般的なダイアログのデザインですが、「OK」と「キャンセル」のどちらもが積極的な動作を意味しており、UIとして明らかにおかしなものです。

例えば、ビジネスアプリケーションをデザインする上では、ビジネスオーナーが形の決定権を持っています。そこでもしビジネスオーナーがどうしてもこのようなUIを望んだ場合、デザイナーはどうすればよいのでしょうか。

もしかすると、デザイナーはユーザーの代弁者であるという立場から、このようなデザインに異を唱えるかもしれません。しかしユーザーというものはそれほど論理的にUIを評価するわけではありません。仮にユーザーが「今まで使ってきたシステムのデザインがこうだった。もうこれに慣れてしまったから、変えて欲しくない」といったことを訴えた場合、デザイナーはその意見に従うべきでしょうか? あるいはユーザー行動の統計としてあまりに不合理な特性が判明した時、デザイナーはそのデータに従って、全体構築性の中で整合された部分秩序の破壊に賛同すべきでしょうか?

デザイナーが取り組んでいるデザインテクニック

昨今、オンラインのサービスやモバイルアプリのデザインについてネットを見ていると、デザイナーが取り組むべきデザインテクニックとして、次のようなものが挙げられています。しかもこのような話を、デザイナー自身が発信しています。

  • いかにユーザーに選択させるか
  • いかに安物を高く売るか
  • いかにユーザーに使い始めさせるか
  • いかにユーザーに継続利用させるか
  • いかにユーザーにクロスバイ/アップバイさせるか
  • いかにユーザーに本当は必要ないものを必要と思わせるか

ユーザー自身がこれらのことを望んでいるのなら、それを助けるデザインテクニックは有意義です。しかしそのような前提なしに、事業主にとっての経済プラス効果を盲目的に至上命令と思い込み、ユーザーに対して狡猾になることがデザイナーの役割であると疑わない人が多くいるように感じるのです。

消費物としてのサービス

現代の高度消費社会においては、あらゆるサービスが、射幸性や即効性といった刺激をテクノロジーによって増幅させており、そのような性質をユーザーインターフェースによって自己説明的に実装することで、ある種のフローコンテンツとして大量消費される存在になっています。

サービスの洪水にさらされて人々の欲求は同質化し、半ば機械のように消費行動に促されています。かつて広告というものが「遠くの人に情報を届ける」という大義のもとでデザイン分野としての存在を確立したように、「多くの人に便利さや楽しさを届ける」という大義のもと、サービスデザイナーもその巨大な装置に組み込まれているのです。

デザイナーの倫理

一方で、このような世の中であるがゆえに、デザイナー倫理についての議論も生まれています。例えば「A Designer’s Code of Ethics」の中でマイク・モンテイロは、「壊れた銃は、機能する銃よりもよくデザインされている」と言っています。

デザイナーは、製品仕様としての要求にうまく応えるだけでなく、自分の作ったものが世の中に出てどのような影響をもつのかということに、自覚的にならなければいけないのです。

デザイナーは自分が作るものの社会的インパクトを評価しなければならない。

マイク・モンテイロ

人間社会は利他性に依存している

利他性というものは、多くの文化において伝統的な美徳であり、様々な宗教的伝統および世俗的世界観の中核的側面となっています。

また、認知心理学、社会心理学、進化生物学などの観点から、人が持つ社会性の根幹には他人との信頼関係があり、人の進化は社会における利他的な関係性を前提にしていると言われます。

利他的な行動は人間以外の動物にも見られますが、人間性(ヒューマニティ)という概念を主客問題として意識化できるのは、人間だけでしょう。

このように、私たちの倫理観において利他性というものがその中心的道徳観になっていることは間違いありませんが、近代における経済的社会構造との関係を振り返ると、単純に、次のような対立があったと言えます。

  • 資本主義 – 生産手段の私有化(利己的)
  • 共産主義 – 生産手段の共有化(利他的)

社会政治体制としての共産主義/社会主義は勢力を失ったものの、資本主義社会が原理的に抱える倫理との摩擦は、現代にもそのまま残されていると考えてよいでしょう。

情報プロレタリアート

デジタル社会における高度消費システムについて、社会学者の公文俊平は、そのようなシステムを所有するものとそうでないものの間に、かつての階級闘争と似た構造が生じていると言い、両者をそれぞれ「情報ブルジョワジー」「情報プロレタリアート」と呼んでいます。

  • 情報ブルジョワジー – 高度な情報システムを所有する
  • 情報プロレタリアート – 盲目的な消費という搾取を受ける

情報ブルジョワジーと情報プロレタリアートの分裂は急速に進んでいると言います。ただしここで言う情報プロレアリアートは、いわゆる情報弱者とは異なります。情報弱者は情報通信技術を利用することができない人を指しますが、情報プロレタリアートは日常的にデジタルツールを使いこなし、ネット上でのコミュニケーションを成立させています。その意味で、情報ブルジョワジーと情報プロレタリアートは、かつての資本家と労働者の関係と違い、必ずしも社会の中ではっきりと二分されているわけではないと言います。ある者がある状況では前者になり、別な状況では後者となる。この階級分裂を完全に外から観察することは難しいのです。

情報社会での階級分裂は、かつての産業社会のそれよりもはるかに急速で苛烈なものとなる可能性がある。

公文俊平

デザイナーは批評的で進歩的になれるか?

このような社会構造の中で、デザイナーは、デザインの思弁性(深く考え、道理をわきまえ、異なる視点を持つこと)を保つことができるのでしょうか。

デザイナーにとってこれは極めて難しい。というのも、ふつうデザイナーは、スペクタクルの悪い側、つまり消費を促すものを作ることに加担する側にいる。果たしてスペキュラティブ・デザインは、深刻なほど大規模な問題に対して思索を活かし、詩的で、批判的で、進歩的なアプローチを組み合わせて、社会的な役割、さらには政治的な役割までも果たすことができるのだろうか?

アンソニー・ダン & フィオナ・レイビー 『スペキュラティブ・デザイン』

デザインすることは他者のために奉仕すること

人のヒューマニティを感じる時、あなたはその人の親切心、同情心、寛大さ、そして善良性を認識しているということです。インターフェースをデザインすることは、基本的に、他の人のために奉仕するということなのです。

マイク・スターン

デザインにおける倫理感について、Apple のデザイン・エヴァンジェリスト・マネージャーであるマイク・スターンは、WWDC の「Essential Design Principles」という講演で、Apple のデザインガイドラインが「ユーザー・インターフェース」ではなく「ヒューマン・インターフェース」という言葉を使ってきた理由として、同社のインターフェースが、単に製品の利用者を対象としているのではなく、人間というものが持っている欠点や短所に対する高潔な質を表しているからだと言っています。そして、開発者が目指すべきゴールは、アプリの美しさや整頓、またはシンプルさや明快さだけでなく、人類に対して奉仕し、人々の生活に対してよい方向に影響を与えることであると言っています。

実際に、Apple が作ってきた GUI やタッチデバイスは、使いやすさを追求した結果として人々に受け入れられており、ユーザーインターフェースデザインという概念が一般的になるきっかけであったと言えます。

セマンティック・ターン

産業革命以降の大量生産の時代では、多くの人に受け入れられるものを製造合理性の観点で形づくるための専門家としてデザイナーが動員されました。やがて機械が複雑化することで、操作盤としてのユーザーインターフェースが必要になりましたが、デザイナーは単にそれを付加的機能要求として受け止めただけでした。

本来的な意味でユーザビリティが重要視されはじめたのは80年代のノーマン以降といって良いでしょう。ユーザーインターフェースとは、内部機構に対する操作盤というよりも、ユーザーに対してその道具の意味を伝えるためのものであるという、視点の転回が起きたのです。

これをクリッペンドルフは「セマンティック・ターン(意味論的転回)」と言っています。人は物そのものの性質ではなく、人に対する意味に基づいて行動するという考え方です。

この図では、人が外部世界とインタラクトする時の理解のモデルを示しています。外部世界は、そのままの姿を直接知ることができません。人はインターフェースや感覚器官を通じてそれらを認識し、そこから何らかの意味を見出します。その意味から行動が展開され、外部世界に影響を与えます。そしてそこから再び認識を得るのです。つまりここでは、人と外部世界(物や環境)が互いに影響し合い、循環を形成することを表しています。

私たちは物からその意味を理解する

私たちは物から意味を見出します。例えば石の硬さから、それを使って肉を切り、食べやすくすることができるという意味を見出します。また、火の熱さから、それを使って肉を焼き、美味しくすることができるという意味を見出します。道具が持つ性質から、その物が私たちにとってどのように良い方向の影響を与えうるかという意味性を感じ取るのです。

デザイン・エントロピー

この図は、デザインが持つ意味性が状況によってどのように変化するかを示しています。

モデルのインテグリティ(完全性、過不足がなく、要素同士が密接に結合している様)が高く、要求や環境的変数の量が少なければ、そのデザインの意味性は大きいと言えるでしょう。逆に、インテグリティが低く複雑であるほど、意味性は小さくなります。

また、デザイン作業の中で意味性を高く保つことはデザインエントロピーを抑制することと同義です。

私たちはエントロピーに抗うものに魅了される

私たちが生活の中で欲求や幻想として引きつけられる対象を振り返ってみると、それらには共通する要素として、清潔さ、反復性、コントラスト性などがあり、私たちはそのようなものに魅力を感じます。考えると、その性質はいずれも、宇宙の法則であるエントロピーの増大に抗っているものと言えないでしょうか。

そして私たちはそのようなものから、真、善、美、と言った普遍的な価値の妥当を汲み取っていないでしょうか。

私たちが、エントロピーが抑制されたものに本能的に惹かれるのは、宇宙の混沌への一体化に抵抗し熱効率が高い状態のもの、つまりまだ栄養が残っているもののエネルギーを取り込んで自分の糧にしたいからでしょう。

鉄粉を撒くと模様ができるのは磁場に不均衡があるからで、世界が均質であればそこに力はなく形はどこにも生まれない、とアレグザンダーは言ってます。またダーシー・トンプソンは、形を、不規則性に対する「力の図式」と呼びました。

私たちにとって、形=力=糧なのです。

もしそうであれば、デザインをすることにおいて、インテグリティを高く保とうとすること(純粋に物のあり方として完全性を目指すこと)には、単にユーザーにとっての即物的な意味性を高めるということ以上の意義があるかもしれません。

本当に車輪を再発明することはできない

「車輪の再発明をするな」とよく言われますが、実際に、車輪ほどのインテグリティを持ったものを再発明することはできないでしょう。車輪の完全性はマックスであり、まるで神が作ったかのようですが、一方で、間違いなく人が作ったものであろうというはっきりとした感じがそこにはあり、だからこそ、車輪は神秘的です。

神秘性とアニミズム

人工物に対して神秘性を感じるという経験はおそらくどの文化圏にもあるはずですが、例えばアイヌの人々は、鍋などの日用的な道具に対しても神(カムイ)が宿っていると考え、イオマンテ(神おくりの儀式)を行うことがあったそうです。

また平安時代から伝わる付喪神(つくも神)は、古い道具に宿る精霊であり、人々はそれらを畏怖したと言われています。

この「物に宿った精霊」という観点で現代の興味深い例として、フィリップ・ヴァン・アレンによる「Animistic Design(精霊的なデザイン)」という実験があります。これは、身の回りの IoT 機器に「精霊」のメタファで人工知能を埋め込み、自律的に動作させようというものです。

このような話から思い出すのは、『ロボットカミイ』という児童書です。ある日、子供たちがダンボールでロボットを作り、カミイと名付けます。するとカミイは自分で動きだして、子供たちと一緒に遊ぶようになります。ところがある時カミイは「ロボットの国に帰りたい」と言うのです。子供たちが「君は僕たちがダンボールで作ったんだぞ」と言うと、カミイは「そうだよ、だから僕はロボットの国からここへ来ることができたんだ」と答えるのです。

人が作ったものであっても、それを生かしているのは、どこか別のところからやってきた神秘的な力である、という感覚を、私は普段から感じています。何かを作っている時、実際に手を動かしているのは自分であっても、その作業において逐次なされる意思決定、無意識に選択されるデザインパターン、そして具象化されていく物の意味性を自己評価する目は、自分だけのものではなく、そのほとんど全てはどこか別のところから、おそらく長い歴史の中で様々な人が行ってきた膨大な工夫の蓄積として織り成されたアートの断片として、特殊な客観性を帯びながら現れるのです。

例えば上述したおかしなダイアログの例のようなデザインはデザイナーに危機感を抱かせます。どのような理由があっても看過されるべきでないアートへの冒涜として、デザイナーの倫理観と衝突するのです。そしてその衝突に対して、ユーザーやシステムオーナーの状況的要求といった直接のデザイン動機とは異なる次元で、デザイナーはデザイナーとしての最善を尽くすことの義務感を受け取るのです。

発展のスパイラル

人間は道具を作った動物ではあるが、道具の使い方を学ぶことが私たち自身を変える、という点に道具と人間の本質があることを意味している。

アラン・ケイ

コンピュータによって私たちの考え方、感じ方、振る舞いは変化します。ですからコンピュータの設計と人間の活動は互いに影響し合いながら発展するものだと考える必要があります。

初期の Apple HIG

自分がデザインした物の社会的な影響を考えるべきであるというデザイナー倫理は、その前提に、私たちは常にデザインされた物から影響を受けるという了解があります。人は道具を作るための道具を作ります。そしてそれを作るための道具を作り、この連鎖が果てしなく続きます。その連綿とした営みの中で、人は自らが作った道具によって、生活の方法、ものの考え方、自己同定の実感に変化を受け、発展させてきたのです。

シンタクティック・ターン

  • 動詞的システム(モーダル)
    V – O
  • 目的語的システム(モードレス)
    O – V

デザインの動機がユーザー視点で立脚しなおされた「セマンティック・ターン」と同時期に、70年代から80年代にかけて、ソフトウェア工学においても重要な転回が起きました。オブジェクト指向プログラミングと GUI の登場です。

オブジェクト指向プログラミングは、その名のとおり、ソフトウェアで扱う処理の対象を客体として自律させたものです。オブジェクト指向ではプログラムの構文において「Object → Verb」の順に記述します。オブジェクト指向のコンセプトをユーザーインターフェースに適用した GUI においても、その基本的な操作方法は、まず画面上の物を指定して次に命令を選ぶという順序になっています。

オブジェクト指向の目的語中心的な性質は、それ以前に主流であった動詞中心的な「Verb → Object」構文のコマンド式入力と対照的です。

動詞的システムが、手続き的な入出力を前提としたモーダルな操作性であったのに対し、目的語的システムでは、非手続き的な振る舞いを目指しており、ユーザーが自由な順序で操作を進められるモードレスなインタラクションを実現します。

これらのことから私は、このオブジェクト指向と GUI によるパラダイムシフトを「シンタクティック・ターン(構文論的転回)」と呼んでいます。

オブジェクト指向とは、オブジェクト自身が自分が何をできるのか知っているという意味である。どちらの場合(プログラムコードとユーザーインターフェース)でも、オブジェクトが先であり、やりたいことがその次となっている。これは具体的なものと抽象的なものとを高い次元で統合している。

アラン・ケイ『ユーザーインターフェース: 個人的見解』

モーダル vs. モードレス

手続型プログラミングのモデルはモーダルであり、オブジェクト指向プログラミングのモデルはモードレスです。

コマンドライン・インターフェースの入力構文(Verb-Object)はモーダルであり、GUI の入力構文(Object-Verb)はモードレスです。

また、モーダルシステムとモードレスシステムは、設計のコンセプトや道具としての意味性において、それぞれ対照的な性質を持っています。

モーダル モードレス
言語的 空間的
タスクベース オブジェクトベース
管理者中心 作業者中心
間接的操作 直接的操作
電車的 自動車的
理論的 実験的
現実主義的 理想主義的
悲観的 楽観的
保守的 進歩的
利己的 利他的
支配的 解放的

テクノロジーが用いられるベクトルには、支配と解放があります。かつてコンピュータは一部の特権的な立場に占有されていました。オブジェクト指向と GUI によるモードレスなインターフェースは、それらを普通の人々に解放することを目的に作られたのです。

しかし現実には、特にビジネスアプリケーションの分野では、未だにほとんどのシステムがモーダルな設計となっています。これはおそらく、システムのオーナーとユーザーが「管理する者」と「管理される者」の関係にあるからで、「管理する者」は、「管理される者」の仕事を特定のタスクによって統制するために、コンピューティングパワーを大規模に導入してきたのです。

ビジネスアプリケーションを企画する人々は大抵、UIをタスク依存に定義しようとし、そのことに何の疑問も持ちません。コンピュータシステムとはそういうものであると信じているようです。ソフトウェアによって仕事をもっと楽しくしようなどとは考えないのでしょう。無自覚の管理主義が、ユーザーから創造性を奪っています。

例えば、作業者は一方的にアプリケーションを与えられ、意味もわからずに単に決まった手続として操作手順を覚えさせられます。手順の意味がわからないのは、ソフトウェアの設計が実際の仕事のドメインモデルを適切に反映していないことが原因です。また作業者は、管理者が欲しがるデータ(例えば膨大な業務報告)の入力を一方的に強制され、自分の仕事の時間を奪われます。これはその組織のヴァイアビリティ(自律的存続可能性)が低いことを表しています。あるいは多くの仕事現場では、クリティカルな入力や操縦が人の手作業に依存していて、インシデント時の原因がすべてヒューマンエラーとして結論づけられます。これは、人が行う仕事とコンピュータが行う仕事の区別が間違っていることを意味しています。

コンピュータシステムがもっとモードレスになれば、私たちは私たち自身の創造性によって、仕事をもっと有意義で楽しいものにできるはずです。人と道具が互いに影響し合い、相乗的に発展していけるようなデザインが、もっと必要なのです。

抽象化の方法

モーダルな道具とモードレスな道具の違いは、意味性の抽象度にあります。

例えば、りんごの皮をむくという作業を考えます。皮がむかれていない元の状態のりんごから、皮がむかれた目標状態のりんごを得るまでのプロセスにおいて、専用のりんご皮むき機はその大部分をサポートするでしょう。りんご皮むき機は、りんごの皮をむくことができるという意味性において、より具象的、つまり抽象度が低い状態です。

一方、果物ナイフは、りんごの皮をむくということについてはより少ない部分しかサポートしません。そのかわり果物ナイフは、りんごの皮をむくこと以外にも用いることができます。これは果物ナイフの抽象度の高さを意味します。抽象度の高い道具は、その使い道をユーザー自身が考え、自分の使用スキルの向上によって、利便性を広げていくことができます。

つまり、抽象度の高い道具=モードレスな道具は、それを使うユーザー自身の変化によって意味性を高めるという意味で、人と道具の相互発展をポジティブな方向に促すのです。

フロリディによるこの図では、人がシステムを解釈する流れを示しています。人は環境にあるシステムの表象からメンタルモデルを形成しますが、その際、抽象化のレベルによってモデルの粒度が変わります。抽象度が低いほどモデルの解像度は高まり、より即物的でモーダルなものになります。逆に抽象レベルが高いほどモデルはシンプルで高いインテグリティを持つようになり、応用的でモードレスなものになるでしょう。

モデルはそのインテグリティが高いほど人の行動を強く変化させると私は考えます。そしてそれがより明快な構造を想起させ、環境に対する深い意味づけをもたらすはずです。

この認識論的な循環が、人と道具の関係性を表しているのです。

デザインの観点から、道具を抽象化するロジックを考えてみます。まず抽象度の低いモーダルなタスクベースのデザインは、タスクの具体的な手順にあわせて作られます。つまり、単純に目標状態から具体的な作業手順を引くことで、必要な機能が定義されてきます。これはあらかじめ業務として手順が決められている場合に自然に発想される方法で、多くのビジネスアプリケーションがモーダルになってしまう理由でもあります。

一方、抽象度の高いモードレスな道具はオブジェクトベースで作られます。オブジェクトベースのデザインは、対象物から抽象された性質にあわせて発想されます。意味性の高い道具の形を導出するには、対象物の性質と、人の認知的/身体的な特性を抽出し、それらを除算します。そこから見出されるのは、道具が備えるべき目的的性質です。デザイナーはその性質を高いインテグリティを目指しながら組み合わせるのです。

デザイナーの心と行為に計画的な明快さがなければ、物理的な明快さは形の中に完成しないということ、そしてそれが可能であるためには、デザイナーはまず第一に、与えられたデザインの問題の機能的起源の最も深いところまでたどり、何らかのパターンを見つけることができねばならない。

クリストファー・アレグザンダー 『形の合成に関するノート』

モードレスデザインの発想方法をまとめると、この図のようになります。まず抽象的な(定義できない)状況的要求があり、その問題部分を対症的に解消する具体的な手順を見つけます。それをそのまま形にするのではなく、その部分的問題解決の中から根本的なパターンを探し、できるだけシンプルな原理として再び抽象化します。そしてその原理が備える目的的性質を組み合わせて、最終的な具象を形作るのです。

モードレスな道具はユーザーに抽象化したモデルを与え、本当の意味で要求への適合可能性を高めます。モードレスな道具はユーザー側の変化を期待しているので、最終的な適合(道具の意味を見出すこと)は、ユーザー自身によってなされます。

良い道具は、ユーザーが使い方に悩まず済むものです。しかし良い道具は同時に、これは何に使えるだろうかと、ユーザーを積極的に悩ませるものなのです。

ほとんどのビジネスアプリケーションのUIはタスクベースでモデリングされており、ユーザーにモーダルな操作体系を強いています。そしてそのために問題を抱えています。多くの場合、モーダルなシステムは、オブジェクトベースでモデリングし直すことでモードレスになり、劇的に改善できるのです。その具体的な方法について、「OOUI – オブジェクトベースのUIモデリング」に書きましたので、参照してください。

私たちは基本的にデザインする

ここまで見てきたとおり、私たちは道具を作りそれを使うことで循環的に世界を認識し、認識を改め、自身の行動を改めてきました。アートとはそのような工夫の蓄積のことであり、それらはアーティファクト(人工物)の形の中に宿っていると私は思います。

アーレントは「人間の条件」のひとつとして「仕事」を挙げます。仕事とは、耐久性のある物を残すこと。消費のための物ではなく、道具のような物。そしてそれらの耐久物は、私たちが死んだ後も残り、私たちが住む世界の一部となっていくのです。

働くということは唯意志するということではない、物を作ることである。我々が物を作る。物は我々によって作られたものでありながら、我々から独立したものであり逆に我々を作る。しかのみならず、我々の作為そのものが物の世界から起る。

西田 幾多郎『絶対矛盾的自己同一』

全人類のヒューマニティに対して感謝の気持ちを表す一つの方法が、素晴らしいものを作りそれを世に出すことだと、私は信じる。

スティーブ・ジョブス

基本的に、人間は、課せられることに抵抗し、常に、自分たちの言葉で、自分たちが扱える人工物を使って、自分たち自身を自覚する機会を捉える。デザインは、人間であることの一部をなす。

クラウス・クリッペンドルフ『意味論的転回』

では、私たちはそういったヒューマニティの継承を現実世界の中でどのように行えばよいのでしょうか。

上述したとおり、世界について、かつての認識と構造はこのようになっていました。資本主義システムの中で、ブルジョワジーとプロレタリアートが対立していたのです。

しかしその後の産業社会はこれらふたつの階級の間に多数の中産階級を生み出し、世界の様相が変わりました。高度資本制社会はもはや消費欲望のオートマティックな増幅システムとなり、全ての人々がそこに飲み込まれていったのです。そして昨今はそこから再び、別の格差がいくつもの様態で現れてきています。

このような現代社会において、なおデザインというものが両義性を持ち、世界への認識を相対化できるとする考えもあります。

デザインとは社会の限界点としての外部性を、内部に節合していくことである。これはデザインという概念自体の両義性です。つまりデザインは資本主義社会にとって外部性である文化の一部であり、その社会から離れて自律化した「場」となります。一方で、デザインとは機能であり、コストを正当化し、利用に奉仕するという意味で、社会の内部性でもあります。

山内 裕

この図では、資本システムの内部と外部にまたがるデザインの両義性を示しています。システムの外部に文化があるという見方です。

しかし一方で、例えばドゥルーズ/ガタリの「社会=システム論」では、私たちの主体はもはや社会構造に組み入れられていて、システムに対する相対的な認識や批判は不可能であるとしています。

その見方では、私たちの文化的な創造性もそのシステムの一部にすぎないということになります。

そこで私が思うのは、そのような主体の不可能性の中にあっても、日常の所々で感じとられるヒューマニティの存在は否定できないということです。これは形而上学的なイデアのようでもある一方、生活の中で実感する現象学的な妥当の了解として、誰かの工夫や献身が仕事や遊びを意味深くしている事実があるのです。そのひとつの例が、道具のデザインから立ち現れるアートの感覚です。

アートは、世界全体に遍在する人類の痕跡なのです。それは直接は知覚できませんが、道具を使い、作る営みの中で、無名の質(Quality without a Name)として感じ取ることができるものです。私たちはそれをデザイナー倫理として自覚しているのです。

つまり、デザインすることはアート(過去の人々の工夫の蓄積)の精神的な移譲を受けるある種のシャーマニズムであり、同時に、ヒューマニティの体現、ヒューマニティに対してヒューマニティによって敬意を表すことなのです。

そしてそのデザイン行為によって新しいインテグリティを作り出すことができるならば、それが生活の中の実際的な意味での真善美として人々に届けられ、次の工夫の余地を作り出し、人々による自らの解放をエンパワーすると考えるのです。

これが、プロレタリアデザインの意味するところです。